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【ヴラド三世】 ドラキュラのモデルにもなった残虐な英雄について

 

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吸血鬼ドラキュラのモデルの一人である【串刺し公・ヴラド三世】をご存じでしょうか?


ドラキュラと呼ばれたヴラド三世は、日本ではしばしばヴラド・ツェぺシュと呼ばれて残虐な行為をしていたことで有名です。


今回はどうして残虐行為をしなければならなかったのか。残虐でありながら、英雄となったヴラドを簡単に説明していこうと思います。

 

 

 

ドラキュラ


1460年頃にルーマニアのワラキア公国の領主だったヴラド三世は、【ドラキュラ】と呼ばれていました。ドラキュラは本来「竜の子」と言う意味があり、これは父親であるヴラド二世がヨーロッパをイスラムの脅威から救った英雄だったからです。ヴラド二世はローマ帝国のドラゴン騎士団の称号でドラゴンを意味する【ドラクル】を与えられた人物で、ヴラド三世もドラクルのニックネームを好んで使っていたそうです。それがドラキュラの語源になります。


ただ、ロシア語で「ドラクル」は【悪魔】を意味していました。そう言われた意味を下で紹介していきます。

 

串刺し公


もう一つの呼び名であるシェぺシュには、串刺しの意味があります。最初にシェぺシュと呼んだのはオスマン帝国の兵士でした。荒野で晒された串刺しにされた味方。この時代では串刺しそのものはそこまで珍しいものではありませんでしたが、二万人。その数はあまりにも異常でした。しかもそのすべての死体が苦悩に晒された表情だったとされます。それは生きたまま串刺しにされたことを意味していました。

 

英雄


上記の説明通りヴラド三世は異常な人物でしたが、近年ではルーマニアの英雄として語られています。ヴラドが生まれた時代のルーマニアはオスマン帝国の攻勢で大変圧服されていました。なのでヴラド三世は幼い頃からオスマン帝国の人質となり、英才教育を受けたとされます。


これはルーマニアをオスマン帝国の思いのままに操るための策略だったとされますが、これが後にオスマン帝国を苦しめることになりました。

 

オスマン帝国の策略で父と兄が暗殺されて、ヴラド三世はルーマニアの領主になります。はじめはオスマン帝国の指示を聞いて多額の貢納金を払っていたとされます。しかしオスマン帝国の要求がエスカレートしていき、自国の子供をオスマン帝国の兵士として差し出す要求にヴラド三世は激怒。オスマン帝国の使者を串刺しにすることで宣戦布告をしました。

こうして、ワラキア(ルーマニア)とオスマン帝国の戦争がはじまります。

 

オスマン帝国の兵力は十万に対して、ワラキア(ルーマニア)は二万。ヨーロッパが束になってもオスマン帝国には敵わないとされいるなかで、ワラキアの兵士の大半が農民に武器をを持たしただけの寄せ集めに過ぎませんでした。真っ向から争っても勝ち目はありません。


ヴラド三世は、あっさり真っ向から戦うことを諦めました。

 

まずワラキアは夜襲を仕掛けてオスマン帝国の兵士を捕虜にします。オスマン帝国側は体制を立て直して、進軍を開始しますが、道中で恐ろしいものを目撃します。上記で説明した二万の串刺し。言葉を失う光景にオスマン帝国の士気は激減。さらに進行してきたオスマン帝国に物資を奪われないために首都をあえて壊滅させるなどの徹底ぶり。

 

追い討ちは死の病とされるペストが流行したと国ぐるみで嘘を流しました。度重なるメンタル攻めにオスマン帝国の兵士は逃げ出しました。

 

こうしてヴラド三世は、ヴラド・シェぺシュ(串刺しにする者)と恐れられました。

 

最期


武力による侵略を諦めたオスマン帝国はヴラド三世の弟と組んで、ヴラド三世に罪を擦り付けて、犯罪者として12年間幽閉した。解放されたヴラドはワラキアの王に返り咲き、再びオスマン帝国との戦争に身を投じます。戦いの中、オスマン帝国の兵士の死体から服を剥ぎ取って、身に纏うことで生き延びようとしますが、味方に敵と勘違いされて殺されました。意外とあっけない最期ですが、ヴラド三世の死に不明な点が多く、暗殺されたと言う説もあるそうです。

 

まとめ


残虐なことで有名な英雄ヴラド・シェぺシュですが、あえて異端であることを演て、恐怖によって国を守りました。串刺しをみて笑っていたとの話もあるそうですが、これらも敵に恐怖を与えるために流した嘘だったのではないかと思います。