チキンのネタ倉庫

暇潰し、話題作り。誰かの役にたったらいいなぁと願うブログ

【リチャード一世】「獅子心王」と呼ばれ戦争と冒険に明け暮れた王様について

 f:id:adachi3939:20190612235009j:plain

王様でありながら戦争に明け暮れたリチャード一世をご存じでしょうか。10年間イングランドの王様をやっていたリチャード一世ですが、イングランドに滞在にしていたのは僅か、6ヶ月。

今回は「獅子心王」と呼ばれた騎士王について調べていきたいと思います。

 

 

 

どういう人物なのか?

 

獅子心王】と呼ばれたリチャード一世は王としての才覚よりも、将軍としての統率力の高さ、死を恐れない騎士道精神を評価された王様です。なかでも圧巻なのが十字軍を率いて、エルサレムを奪還したサラディンとの戦いで活躍しました。イングランドの王でありながら幼少期はフランスで育ち、即位していた10年間もイングランドにいたのは僅か6ヶ月だったので英語を話すことができなかったみたいです。

 

即位前

 

1157年9月8日に生まれたリチャード一世には、兄弟が五人いましたが仲はそれほどよくなかったようで、正当後継者である長男が亡くなったことで、兄弟四人によって分割相続が予定されました。リチャードを含め三人の兄弟には土地が与えられましたが、末っ子であるジョンには土地があたえられなかったので、ジョンは欠地王と呼ばれます。しかし父であるヘンリ二世は次第に権力を握るようになり、しまいにはジョンに王位を継承させるような考えを示したので、リチャードを含めて他の兄弟は反旗を翻した。このように父ヘンリ二世のジョンへの偏愛、フランス王の介入、母であるエレオノールの助力もあり、父と兄弟の覇権争いは絶えなかった。

 

即位後


父、兄が死んだことで、1189年にリチャードはイングランドの王に即位します。即位してすぐに第三回十字軍遠征の要請があったので、リチャードは王庫の金、軍役代納金だけでは足らないために、城、所領、などを売却して資金を集めました。その熱意から「適当な買い手があれば、ロンドンも売る」と言っていたとされます。

1190年にフランスの王・フィリップ二世、ドイツのローマ皇帝・フリードヒ一世たちと、リチャードは十字軍を率いて、サラディン率いるアラブ軍と戦うことになります。しかし、フリードヒ一世は進軍途中で、不慮の事故で他界したのでドイツ軍は撤退、元々仲の悪かったフィリップ二世はアッコン陥落後帰国してしまったので、事実上十字軍のトップはリチャード一世のみになり苦しい戦いが続きました。

サラディンとの和解
リチャードは王としては落第でしたが、騎士として将軍しての実力は確かなものでした。エルサレムを奪還したサラディンと互角以上の戦いを繰り広げた。だが長期に渡る戦いで兵士は疲弊してしまったのでサラディン側と休戦協定を結ぶことになりリチャードは帰国することになります。

 

f:id:adachi3939:20190612235033j:plain


王の身代金


リチャード一世は「獅子心王」と呼ばれるのは勇敢軍人としてではなく。その尊大で短気な性格もあります。交渉が上手く進まないと捕虜を虐殺したり、オーストリア公に激昂したりしていました。遺恨に思ったオーストリア公は帰国途中でアドリア海で遭難していたリチャードを捕虜にしました。

王を解放するための身代金はかなりの高額だったそうです。あまりにも高額だったので、お金を一度では払いきることは不可能で、後払いとしてもらうかわりに人質200人を差し出します。また身代金の支払いのために、国民は年収の四分の一を納めて、騎士に冥加金、教会には金銀の放出が求められた。

やっと解放されたリチャードでしたが、すぐに戦争に向かいます。捕虜になっているあいだに、弟のジョンがリチャードを死んだことにして王位を奪おうとしていましたが、帰国後に王位を回復して再び王になります。

その後、フランスのフィリップ二世と争い各地を転戦します。1199年3月25日、鎧を脱いでいたとき、肩にクロスボウの矢を受けてしまい、その傷がもとで4月6日にリチャード一世は41歳で亡くなりました。

 

まとめ


リチャード一世には数々の逸話があります。英語(イングランドの言葉)が話せない、自らの剣をエクスカリバーと読んでいた、同性愛者を疑われていた(子供がいない)など個性の強い王様やと思いました。

興味を持たれたかたは、ご自分にお調べください。

最後までありがとうございました。


【ネロ・クラウディウス】皇帝の自覚なし。暴君と恐れられた皇帝について

 f:id:adachi3939:20190603215839j:plain


母親殺し、妻殺し、自らを芸術家と評した皇帝ネロ。最後には自殺することを選択したネロでしたが、民衆からたくさんの花やお供え物が寄せられました。暴君と呼ばれていたネロは実は慕われていた?

今回は暴君と恐れられたネロの真実に迫りたいと思います。

 

 

出生

 

父はエジプト女王クレオパトラの夫なった人物の孫で、母はローマ初代皇帝のひ孫に当たる人物で、血筋的にもネロは皇帝に相応しい人物でしたが、母である小アグリッピーナは実の兄である当時の皇帝によって追放されており、ネロは叔母に育てられていたので、皇帝になることは難しい立場でした。

しかし、ネロは16歳にして皇帝になります。

それは母である小アグリッピーナの暗躍によるものです。小アグリッピーナはかなり野心の強い人物だったようで、自身の叔父であるクラウディウス皇帝をたぶらかして妻になると皇帝を暗殺しました。手段を選ばない小アグリッピーナは、息子であるネロの皇帝即位に邪魔な存在を淘汰していき、ネロは若冠16歳にして皇帝に即位しました。

 

皇帝ネロの誕生

 

ネロが即位して五年は、稀に見る善政と評価されローマはたいへん活気に満ちていたと言われています。後にネロが暴君と呼ばれるようになるのは、母の死がきっかけだと思われます。

善政とは評しましたが、これはおそらくネロの実力によるものではありません。家庭教師兼補佐である哲学者・セネカの存在が大きかったのです。ネロはセネカの助言を良く聞くことで、安定した善政を保っていました。

これを面白く思わないのは母である小アグリッピーナでした。小アグリッピーナは政治に介入をしだしてネロは窮屈に感じはじめました。

そんななか、ネロはついに母である小アグリッピーナを暗殺してしまいます。原因は色々あるでしょうが、一番は女性問題でした。解放奴隷の女性を寵愛していたネロに、口を挟む小アグリッピーナ。さらには正妻と別れ別の女性との結婚も邪魔されたネロは、ついに母を暗殺しました。

 

暴君の誕生

 

母の死をきっかけにネロは欲望を爆発させます。奴隷の少年を去勢して妻と迎える。女装して哲学者と結婚。妻に罪を擦り付けて処刑して、別の女性を正妻と迎える。さらには師匠であり優秀な補佐であったセネカにも離反の疑いをかけて処刑を命じました。こうして、口を挟むような者はいなくなったネロは自由に気ままに生きていくようになりました。

 

ローマ大火災

 

のちの世の中でネロが暴君と呼ばれるきっかけは、ローマ大火災です。鎮火に六日七晩を費やしたとされる大火災で、数えきれないほどの犠牲者を出したとされます。ネロは自ら指揮ととり、犠牲者を最小に食い止めたとされますが、あまりにも対応が早かったことと、災害地に「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」を建設したことで、ネロは自ら火を放つことで自分の理想のローマに作り替えようとしたのではないか?と民衆の間で悪い噂が立ちました。

焦ったネロは火災の原因を全てキリスト教徒に擦り付けて、片っ端から処刑していきました。猛獣に食わしたり、火炙りにしたり、と非情な方法の処刑にネロは哄笑していたとされます。

 

暴走

 

ローマ火災では災害者へのケアもしっかり行い、皇帝らしい言動が目立ち評価されていましたが、次第に暴走が加速します。男だろうと女だろうと容姿が優れていれば誰でも自分の側に置き、上記でも説明した少年との結婚やら、欲望の赴くままに邁進していき、挙げ句には歌手になりたい夢を叶えるために数千人を集めてリサイタルを開きました。これが大変下手だったようで、逃げ出す人が続出したそうです。ですが退屈そうにしている人物には罰を与えられたようで、後の皇帝ウェスパシアヌスはリサイタル中に居眠りをしていたので絶交されたそうです。

また四年に一度あるオリンピア祭に対抗してネロ祭を開いたりとやりたい放題で、ネロ祭では自らも出場して成績に問わず一位になっていたと言う記録も残っています。

ネロの言動は決して誉められるものではありませんでした。

 

そして国家の敵に

 

ドムス・アウレアで贅沢の限りを尽くしていたネロでしたがついに、各地で反乱が起こるようになります。反乱は軍の力で鎮めることはできましたが、穀物の配給が満足に行くことができなくなりました。穀物の価格が高騰していたローマにエジプトから穀物輸送船が着船したのですが、運んでいたのはネロが闘技場で使おうと思っていた砂でした。これに民衆は激怒、支持率の低下を招き、元老院も巻き込む事態になりました。ローマ帝国では外交や財政などの決定権は元老院が握っていたのですが、ガルバを皇帝と擁立することでネロを国家の敵と見なしたのです。

もはやローマに味方はいない。ネロは逃亡してローマ郊外の別荘に逃げ込みますが、1日で見付かりネロは自らの喉を短剣で突き刺して自殺しました。嘘か本当か、死に際にネロは「見よ、世界は優れた芸術家を失うのだ」と言う言葉は有名だそうです。

ネロの自殺後、ネロの死を悲しんだ民衆からたくさんの花やお供え物が寄せられました。意外にもネロは民衆から慕われていたこと証明しました。

 

まとめ

 

暴君で知られるネロですが、おそらく彼は権力で力を誇示することには興味がなく、人々にスゴいやつと、面白い奴と慕われたい気持ちが強かったのではないかと思いました。



【Fate/Zero】登場サーヴァント(英霊)元ネタまとめ

 

以前に紹介したfateシリーズの元ネタ紹介。


前回はFate/stay nightの元ネタを紹介しましたが、今回はFate/Zero編です。



前回よりもスッキリ、ストレートにまとめました。


最後まで読んでくださると、とても嬉しいです!



chickenno.hatenablog.com

 


 

 

 

Fate/Zeroとは

Fate/stay night」の十年前を描いたスピンオフ作品で、アニメ化もされました。アニメは2011年1月から一期、2012年4月から二期が放送された全25話の構成でした。

私が最初に視聴したfateシリーズは実はfateZEROだったりします。ここからfateシリーズを知り、聖杯戦争すげーってなりました。スピンオフを含めてアニメ化された作品を視聴してきましたが、本家よりもZEROが好きです。何回見ても飽きません!!!!

そんな感じで今回もよろしくお願いいたします。最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 

セイバー

 

元ネタ アーサー王

 

f:id:adachi3939:20190204203157j:plain

 

fateシリーズでは女性として登場する古代ブリタニアの王。選定の剣を引き抜いて王に選ばれた。大聖堂前には大きな石があり、そこに突き刺さった剣を抜けた者が王になると言われる伝説があり、その剣を引き抜いたのがアーサーです。即位したアーサーは居城のキャメロットに円卓の騎士を置き、各地で戦いに勝利して名声を積み上げていきました。しかし、有能な部下の裏切りが続き、その戦いの果てに致命傷を負い命を落としました。

chickenno.hatenablog.com

 

アーチャー

 

元ネタ ギルガメッシュ

f:id:adachi3939:20190129081935j:plain


 

 

世界最古の物語「ギルガメッシュ叙事詩」に登場する半神半人の古代メソポタミアの王様。当初は王族として生まれた地位、神の血を引く者とし人間離れした能力から、傍若無人な振る舞いをしていたが、親友となるエンキドゥとの出会いをきっかけに改心して良き王様になる。のちにエンキドゥが死ぬことになり、死への恐怖を感じ不老不死を求めて旅にでるが、失敗してしまう。世界最古の英雄であるが故に、英雄王。

chickenno.hatenablog.com

 

 

ランサー

 

元ネタ ディルムッド・オディナ

 

 

ケルト神話で登場するフィオナ騎士団の騎士。美しい容姿を持った騎士で、女性を魅了する魔法の泣きほくろを持っている。上司に当たるフィオナ騎士団の英雄フィン・マックールの三番目の妻になるはずだったグラーニアと恋に落ちて、二人で逃げ出した。フィンは信頼する部下の裏切りに大変お怒りになるが、のちに二人は許されて正式に結婚して、四人の子供にも恵まれた。

 

バーサーカー

 

元ネタ ランスロット

 

湖の騎士と呼ばれていた円卓の騎士。円卓の騎士の中でも圧倒的な強さをもっていて、アーサー王からの信頼も厚い人物でした。アーサー王の妃であるグネヴィアと不倫関係にあり、これがきっかけで国は内乱に突入してしまい、最後にアーサー王は死に、国も崩壊してしまいました。ランスロットは出家して表舞台から消えることを望み、グネヴィアの死を知ると食を絶ち餓死することを選びました。

 

ライダー

 

元ネタ イスカンダル

 

f:id:adachi3939:20190520223015j:plain

 

別名、アレキサンダー大王、fateシリーズではイスカンダルで知られ、世界を征服しかけた男。のちの英雄であるカエサルハンニバル、ナポレオンも英雄と認めた大英雄です。アレクサンドロスは二十歳で即位して僅か十年ほどで、約4500キロに及ぶ遠征と征服を成し遂げたと言われています。征服王の名に相応しい功績を残したアレクサンドロスでしたが、32歳であっけなくこの世を去りました。「最も強きもの」とアレクサンドロスが遺言を残したがために、帝国は空中分解。有力な将軍たちによる後継者争いが勃発した。最終的に三人の将軍よって帝国を治めることになった。 

chickenno.hatenablog.com

 

 

キャスター

 

元ネタ ジル・ド・レ

 

f:id:adachi3939:20190317234939j:plain

フランスとイギリスとの間に起こった百年戦争で活躍したジャンヌ・ダルクの良き理解者であり、「救国の英雄」と称えられたのがジル・ド・レです。その半生は英雄、もう半分の人生はただの人殺しで、快楽殺人者でした。Fate/Zeroでは救国の英雄としてではなく、快楽殺人者であった頃が強く現れた形で登場するので、異常に不気味です。

chickenno.hatenablog.com

 

 

アサシン

 

元ネタ ハサン・サッバーハ

 

f:id:adachi3939:20190528001517j:plain

 

アサシンの語源にもなった暗殺教団「アサッシン教団」の創設者。11~13世紀のイスラム教の世界ではスンニ派シーア派で、派閥がはっきりと別れて対立していました。当時のイスラム教はスンニ派であるセルジューク朝西アジアの実権を握っていて、シーア派派は圧倒的な少数派でした。そこで、シーア派の宣教師であるハサン・サッバーフはアサッシン教団を創立することで、スンニ派の有力な人物を暗殺することで、シーア派の存在を世の中に広めようとしました。影響力は多大でスンニ派の有力な人物達は、暗殺を恐れてボディーガードを常に同伴させたと言われています。ハサン・サッバーフは1124年に亡くなったとされていますが、アサッシン教団はモンゴル軍に壊滅されるまで150年は存在したとされています。

chickenno.hatenablog.com

 

 

まとめ

 

どうでしたか? 元ネタになった偉人を知っていると、より楽しめるようになると思うのでもう一度fatezeroを見ましょう!!!! 新しい発見をできると思います!!

【イスカンダル】英雄達も認めた大英雄。征服王・アレクサンドロス大王について

 f:id:adachi3939:20190520223015j:plain



こんにちは、おはようございます。今回は大英雄・アレクサンドロス大王について解説していきたいと思います。アレクサンドロス大王と言えば、征服王、イスカンダルアレキサンダー大王と色んな通称があり、若干困惑しますが、同一人物です。

彼は二十歳で王位を継承すると短い人生で東西合わせて、4500キロに及ぶ広大な地域を征服したとされ、その功績からのちの英雄である、ハンニバルカエサル、ナポレオンも憧れました。現代でも、アレクサンドロスの影響力は強く、歴史上もっとも影響力のある人物であると挙げられるようです。

今回はそんなアレクサンドロスをを紹介していきたいと思います。最後まで読んでくださると、とても嬉しいです。

王位継承前

f:id:adachi3939:20190520223030j:plain

 

紀元前356年に生まれたアレクサンドロスは、マケドニアの王であるピリッポス二世の子として生を受けました。このピリッポス二世は、ギリシアで弱小国家だったマケドニアを強国にまで成長させたやり手で、アレクサンドロスにも大いに期待して、あの有名な哲学者であるアリストテレスを家庭教師として招き入れていた。アレクサンドロスは偉大な父と有名な哲学者からあらゆることを学び、文武両道の才覚を得たと思われます。

 

王へ

 

父であるピリッポス二世が暗殺されて、若干二十歳にしてアレクサンドロスマケドニアの王となりました。王位と熟練の軍隊を受け継いだアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを完全に掌握すると、全ギリシアとの同盟を唱え、事実上のギリシア制圧を成し遂げた。

そして、ギリシアの宿敵であるペルシア東征に出発しました。

 

東方遠征

 

ペルシアに突入したマケドニア軍は、グラニコラス川でペルシア軍と対峙します。この戦いでアレクサンドロスは、先頭になって戦うと、敵将を撃ち取る活躍をみせ、両軍に大きな強いインパクトを残してカリスマ性を証明しました。

そして、天下分け目の戦いとも言える運命の戦い【イッソスの戦い】を迎えます。

ペルシア帝国のダレイオス三世が率いるのはペルシア軍12万人、対してアレクサンドロスが率いるマケドニア軍は四万人足らずでしたが、ペルシア軍から五万人とも言われる戦死者が出して圧勝しました。

アレクサンドロスの快進撃は続き、次はエジプトを攻略して、ファラオ(神であり、エジプトの王さま)になります。

アレクサンドロスを侮っていたダレイオス三世15万の大軍を準備して、ガウガメラの戦いの望みますがマケドニアに大敗。アレクサンドロスはさらなる進軍を実現させて、ペルシア領土の都市を次々を侵略して破壊と略奪を繰り返しました。

 

ヘレニズム文

f:id:adachi3939:20190520223050j:plain

 

ペルシアの完全侵略を目指して進軍を目指すアレクサンドロスでしたが、部下に反対されて中断することになり、兼ねてから考えていたペルシア文化を取り込むことに力を入れます。実はペルシアを侵略していくうちに、ペルシアの高度な文化に感激して、宿敵であったダレイオス三世を尊敬するようにもなっていました。

そうして行われたのは、スーサでの合同結婚式です。マケドニアの兵士とペルシアの女性による結婚式行われ、文化の融合が成されました。

 

急死

 

ヘレニズム文化を浸透させる活動を続けていくアレクサンドロスは、アラビア遠征計画をしますが、紀元前323年6月10日に32歳の若さでこの世を去りました。蜂に刺されたことで10日間高熱にうなされて、「もっとも強い者が帝国を継承せよ」と遺言を残したことで、帝国は内乱に突入して崩壊しました。

 

まとめ


あまりにも大昔の人なので、学者や作家による創作も混じっているので、今回ご紹介した内容の全てが真実とは限りません。ですが現代にまで語り継がれる大英雄であることには間違いはないので、名前くらいは知っていても損がない偉大な英雄だと思います。

 

こちらでもアレクサンドロスを紹介しています↓↓↓↓↓

chickenno.hatenablog.com

 

 

【ジャンヌ・ダルク】フランスの英雄。神に導かれた少女を簡単に解説

f:id:adachi3939:20190513235645j:plain 

そういえば日本の実力派バンドのJanne Da Arcが正式に解散も発表しました。Janne Da Arcのなかでは、Z-HARDっていうアルバムが好きで今でもたびたび聞きていました。まあ、十年に近くこれといった活動はしていなかったので、しょうがないことだと思いますが残念です。

と言うわけで、今回は「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルクを解説したいと思います。ジャンヌ・ダルクは漫画、映画にも幾度も登場する人気のある英雄です。十代の少女でありながら、英雄と呼ばれ短い人生となった聖女を、なるべく簡単に解説していきたいと思います。

 

 

 

どういう人物だったのか?

 

・「オルレアンの乙女」と呼ばれたフランスの軍人、聖女。

・男装して戦場を駆け回り、フランスとイングランドの間で起こった百年戦争で活躍した。

・19歳の若さで、火炙りに処された。

 

 

生まれ

 

1412年1月6日頃にジャンヌ・ダルクは農家の子供として生まれたとされています。ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有していたと言われています。本来なら歴史の表舞台に現れるような人物でありませんでした。

しかし、ジャンヌの運命は「神の声」を聞いたことで変わりはじめます。12歳の頃、三人の神と出会い「イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをフランス王にせよ」とお告げを受けました。

当時のフランスはイングランドとの戦争で窮地に立たされていました。ジャンヌはシャルルに面会して戦争に参加させてもらえるように言います。説が(変装したシャルルを見極めたとか)いくつかあり真実はわかりませんが、シャルルに気に入られたジャンヌは、無事にオルレアンの軍隊に加わることができました。

 

オルレアン包囲戦

 

オルレアンは半年以上もイングランド側が優勢でしたが、ジャンヌダルクが戦場に加わると僅か9日間でイングランドによる包囲を崩壊させました。その後も、フランス軍イングランド軍相手に連勝、見事にシャルルを即位させることに成功しました。

こうしてジャンヌ・ダルクはオルレアンを解放させたことから、「オルレアンの乙女」と呼ばれることになります。

 

そして火炙りへ

 

シャルルを王位につかせたジャンヌでしたが、首都であるパリはいまだにイングランドのものでした。ジャンヌはパリの奪還のために再び戦場に向かいますが、落馬して敵軍の捕虜になってしまいます。

シャルルはジャンヌを助けようと多少は動きますが効果はなく、ほぼ諦めたと言ってもいいでしょう。

ジャンヌの身柄はイングランド軍に引き渡されて、裁判にかけられます。罪状はめちゃくちゃなもので、文字が読めないジャンヌにデタラメなサインをさせて、ジャンヌは生きたまま19歳と言う若さで火刑という残酷な刑に処せられました。

 

戦場でのジャンヌ・ダルク

 

戦場でのジャンヌダルクは髪を短く切り、男装して甲冑を身に付けていたとされます。これには女性と思われないようにする意味があり、「性的な対象にならない」配慮とされています。また、剣よりも旗を持つことを選び、味方を鼓舞していました。

現代の研究者のあいだでは、ジャンヌは優れた戦術家であったのという考えがあり、だからこそフランス軍の奇跡的な逆転を可能にした、されています。

 

まとめ

 

フランスの英雄ジャンヌ・ダルクは少女でありながら、英雄となりました。しかし、その最期は母国に、信じた神にも裏切られた悲劇的な結末でした。また、ジャンヌが神を見ることができたのは、感染症だったなどの病気が有力であるそうです。

お札の人が気になったので調べようと思った。


 

2024年からお札が新しくなるらしいんだけど、新しいデザインになった人物がさっぱりわかりません。そんなかた(自分自身)の為に新しくデザインされる人物を簡単にまとめてみようと思います。

 

調べていく上でわかったんですか、なんでも約二十年ごとに新しくなっているようで、元号が平成から令和に変わること、偽造防止が理由だそうです。

 

 

流通している紙幣

まずは2004年から使われているお札の人を紹介します。

 

一万円札 福沢諭吉

f:id:adachi3939:20190421231221j:plain


学問のすすめ」の著者であり、慶應義塾の創設者。海外の文化を日本に積極的に取り込んだ人物で、日本銀行の設立に貢献した。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と言う言葉はとても有名です。

 

五千円札 樋口一葉

f:id:adachi3939:20190421231241p:plain


明治時代の女流作家で25歳という若さで亡くなった。貧しい生活から脱却する、つまりお金が目的で小説を書きはじめた。短い生涯の中で、一般人だけではなく、文豪たちからも高い評価を受ける作品を次々に発表した。「女に学問は必要ない」という時代だったので日本文学界での影響が強く、女流作家のパイオニアになった。

 

千円札 野口英世

f:id:adachi3939:20190421231254j:plain


世界的に有名な細菌学者。アメリカに渡り細菌学を学び、梅毒スピロヘータの研究が認められて、ノーベル賞候補にもなった。その後黄熱病の研究のために、南米エクアドルに渡るが自身が黄熱病に罹患して亡くなった。

 

2024年から使用されるお札の人

 

一万円札 渋沢栄一

f:id:adachi3939:20190421231308j:plain


「資本主義の父」と呼ばれた実業家。実は徳川慶喜の側近だった。徳川慶喜の弟と先進諸国を訪問して、社会の仕組みを学び日本に取り入れた。日本銀行をはじめ多くの創設に関わった(東京ガス、東海海上火災保険、王子製紙、現太平洋セメント、帝国ホテル、キリンビールサッポロビール)企業だけではなく、一橋大学日本女子大学早稲田大学などの設立にも関わっている。

 

五千円札 津田梅子

f:id:adachi3939:20190421231457g:plain


日本最古の女子留学生で、帰国子女のパイオニア? 六歳の頃からアメリカに渡り、17の時に日本に帰国。当時の女は結婚みたいな習慣が馴染めずに再びアメリカに渡り、女性教育を勉強した。後に女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設した。「女性に教育は必要ない」当時の日本の考えを否定して、男女の教育差を改善しようとした人物です。

 

千円札 北里柴三郎

f:id:adachi3939:20190421231440j:plain


細菌学者であり、医学者。「日本の細菌学の父」とされ破傷風を予防する治療法やヨーロッパで流行したジフテレシアの研究で知られているようです。また、私立北里研究所(現在の北里大学)を創設した。実は野口英世などが北里柴三郎の元で学んでいたことがあり、「ドンネル先生」ドイツ語でカミナリ親父と呼ばれていたそうです。

 

まとめ

この中の偉人でしたら断トツで福沢諭吉が好きでしたが、2024年からは渋沢栄一が好きになると思います。

【ヴラド三世】 ドラキュラのモデルにもなった残虐な英雄について

 

f:id:adachi3939:20190415001622p:plain

吸血鬼ドラキュラのモデルの一人である【串刺し公・ヴラド三世】をご存じでしょうか?

ドラキュラと呼ばれたヴラド三世は、日本ではしばしばヴラド・ツェぺシュと呼ばれています。今回は残虐の英雄を簡単に説明していこうと思います。

 

 

 

ドラキュラ


1460年頃にルーマニアのワラキア公国の領主だった人物であるヴラド三世は、【ドラキュラ】と呼ばれていました。ドラキュラは本来「竜の子」と言う意味があり、これは父親であるヴラド二世がヨーロッパをイスラムの脅威から救った英雄だったからです。ヴラド二世はローマ帝国ドラゴン騎士団の称号でドラゴンを意味する【ドラクラ】を与えられた人物で、ヴラド三世もドラクラのニックネームを好んで使っていたそうです。それがドラキュラの語源になります。

ただ、ロシア語で「ドラクル」は【悪魔】を意味していました。そう言われた意味を下で紹介していきます。

 

串刺し公


もう一つの呼び名であるシェぺシュには、串刺しの意味があります。最初にシェぺシュと呼んだのはオスマン帝国の兵士でした。荒野で晒された串刺しにされた味方。この時代では串刺しそのものはそこまで珍しいものではありませんでしたが、その数はあまりにも異常でした。二万人。しかもそのすべての死体が苦悩に晒された表情だったとされます。それは生きたまま串刺しにされたことを意味していました。

 

英雄


上記の説明通りヴラド三世の異常な人物でした。しかし近年ではルーマニアの英雄として語られています。ヴラドが生まれた時代のルーマニアオスマン帝国の攻勢で大変圧服されていました。なのでヴラド三世は幼い頃からオスマン帝国の人質となり、英才教育を受けたとされます。これはルーマニアオスマン帝国の思いのままに操るための策略だったとされますが、これが後にオスマン帝国を苦しめることになりました。

 

オスマン帝国の策略で父と兄が暗殺されて、ヴラド三世はルーマニアの領主になります。はじめはオスマン帝国の指示を聞いて多額の貢納金を払っていたとされます。しかしオスマン帝国の要求はエスカレートしていき。自国の子供をオスマン帝国の兵士として差し出す要求にヴラド三世は激怒、オスマン帝国の使者を串刺しにすることで宣戦布告。ワラキア(ルーマニア)とオスマン帝国の戦争がはじまります。

 

オスマン帝国の兵力は十万に対して、ワラキア(ルーマニア)は二万。ヨーロッパが束になってもオスマン帝国には戦力で敵わないとされ、ワラキアの兵士の大半が農民に武器をを持たしただけの寄せ集めに過ぎませんでした。

 

真っ向から争っても勝ち目はありません。そこでヴラド三世は真っ向から戦うことを諦めました。

 

まずワラキアは夜襲を仕掛けてオスマン帝国の兵士を捕虜にします。オスマン帝国側は体制を立て直して、進軍を開始しますが、道中で恐ろしいものを目撃します。上記で説明した二万の串刺し。言葉を失う光景にオスマン帝国の士気は激減。さらに進行してきたオスマン帝国に物資を奪われないために首都をあえて壊滅させるなどの徹底ぶり。

 

追い討ちは死の病とされるペストが流行ったと国ぐるみで嘘を流しました。度重なる精神的な戦略にオスマン帝国の兵士を逃げ出しました。

 

こうしてヴラド三世は、ヴラド・シェぺシュ(串刺しにする者)と恐れられました。

 

最期


武力による侵略を諦めたオスマン帝国はヴラド三世の弟と組んで、ヴラド三世に罪を擦り付けて、犯罪者として12年間幽閉されました。解放されたヴラドはワラキアの王に返り咲き、再びオスマン帝国との戦争に身を投じます。戦いの中、オスマン帝国の兵士の死体から服を剥ぎ取って、身に纏うことで生き延びようとしますが、味方に敵と勘違いされて殺されました。意外とあっけない最期ですが、ヴラド三世の死に不明な点が多く、暗殺されたと言う説もあるそうです。

 

まとめ


残虐なことで有名な英雄ヴラド・シェぺシュですが、あえて異端であることを演て、恐怖によって国を守りました。串刺しをみて笑っていたとの話もあるそうですが、これらも敵に恐怖を与えるために流した嘘だったのではないかと思います。